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慶文堂 ひま人日記

慶文堂 ひま人日記

*4 独立協会活動と大韓帝国~私的考察

 ここからの部分は、残念ながら日本の歴史教科書には載っていません。
 日韓関係を理解するには重要な部分なんですが・・・。

 従いまして、Wikipediaなどのイロイロなネットの資料を参考にして見て行きたいと思います。

(引用開始)
独立協会の創立と民衆啓蒙

俄館播遷によって金弘集の親日内閣が倒れ、親露派政権が成立すると、日本の侵略勢力はいったん牽制された。しかし、国王がロシア公使館に留まっている間に、ロシアをはじめとする列強の利権侵奪はますます激しくなり、執権層は親露的な性向を露わにした。
 このようなときに甲申政変の主導者としてアメリカヘ亡命していた徐載弼が帰国した。彼は自由民主主義的改革思想を民衆に普及し、国民の力で完全なる自主独立国家を樹立しようと、『独立新聞』を創刊し、独立協会を創立した(1896年)。

(引用終わり)



『俄館播遷』とは、韓国国内では親日派勢力と反日勢力が対立し、身の危険を感じた高宗が、ロシアと内通しロシア領事館に逃げ込んでしまった事(露館播遷)。
 その辺りのことを、より詳しくWikipediaから引用します。



(引用開始)(Wikipediaより)
乙未事変に日本軍が関わっていたと報じられると、国内の中は親日派勢力と反日勢力が対立し、身の危険を感じた高宗は、ロシアと内通しロシア領事館に逃げ込んでしまう(露館播遷 韓国では俄館播遷)。ロシア領事館の保護下で、高宗は親露政策を取り、そのときの混乱で開化派の金弘集などは殺されてしまう。多くの権益がロシアに奪われ、民衆達は親露政権に対しても反発の動きを見せたため、高宗は、王宮へ戻らず(註:『戻らざる』か?)を得なくなった。こうした自主独立の動きに押され、高宗は1897年10月12日、皇帝に即位、14日に国号を大韓帝国と改め、年号を光武とし、皇帝独裁による独立国家への動きをようやく見せ始める。
(引用終わり)



 なるほど。

 簡単に『俄館播遷』と一言で片付けていますが、要するに韓国国内で親日派勢力と反日勢力が対立している最中、肝腎の国王(高宗)がロシアと内通してロシア領事館に逃げ込んだ、と。そして、ロシア領事館の保護の下で親露政策を摂った、とこういう事ですか。つまり国王は日本帝国ではなくてロシアを選んだ、と。
 それに伴って金弘集(開化派であり、後に殺害される)の親日内閣が倒れ、親露内閣が誕生した。その結果、多くの権益がロシアに奪われ、民衆達は親露政権に対しても反発の動きを見せた。

 その辺りの所を、韓国の教科書では、

>しかし、国王がロシア公使館に留まっている間に、ロシアをはじめとする列強の利権侵奪はますます激しくなり、執権層は親露的な性向を露わにした。

 と表現しているわけですね。
 あれ?民衆は??民衆の親露政権への反発は書かれていませんね。この点を押さえておかないと、次に出てくる徐載弼と独立協会がなぜ民衆に支持されたのかが理解し難いと思うのですが。



 ところでこの『徐載弼と独立協会』について、私は浅学にして知りませんでした。そこでイロイロと調べてみました。が、なかなか見つからず、地球旅行研究所というサイトの『世界歴史事典データベース』でようやく分かりやすい説明を見付ける事が出来ました(http://www.tabiken.com/history/doc/N/N070C100.HTM)。


(引用開始)
 日清戦争後の朝鮮ではイギリス・ロシア・日本などに鉱山採掘権・鉄道敷設権など次々に利権を奪われ,国内では官僚の対立が絶えなかった。1896年には保守派の人々は,ロシアの軍艦からロシア兵をソウルに引き入れ,国王を脅迫してロシア公使館にかくし,親ロシア内閣をつくった。この危機に直面してアメリカ亡命から帰った徐載弼は尹致昊や李高在にはかり,20数名の会員を集めて,1896年独立協会を組織した。彼らは国民に自由主義と民主主義思想を宣伝し,ロシアと日本に反対して,アメリカの了解のもとに朝鮮の独立を達成しようとした。そのため,「独立新聞」を発行したが,これは朝鮮文字で書かれた最初の新聞であり,高級官僚だけでなく,一般民衆にも大きな影響を与えた。1898年には京城(ソウル)で1万人集会を開き,ロシア顧問団の撤退・朝鮮の独立・民権の伸張を決議した。このためロシア顧問団も引き揚げざるをえなかった。親ロシア政府の弾圧を受けて1899年解散させられたが,大衆を煽動して独立運動を展開したところに大きな歴史的意義があった。
(引用終わり)



 このサイトの主義・主張および思想がどのようなものかは分かりませんが、取りたてて極端でもないようなので引用しました。
 確かになかなか立派な、そして影響力のあった方のようです。このような人が韓国の政権の中枢にいたら、その後の日韓、およびアジアの行く末はどのように変わっていたでしょうか?それを思うと残念です。




 さて韓国の歴史教科書の続きを。
 いよいよ大韓帝国の誕生ですか。


 先にWikipediaの記事を引用してみます。


(引用開始)
大韓帝国(だいかんていこく)とは、1897年 - 1910年に李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国、韓国とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国」と呼ばれることもある。清の冊封国時代と日本統治時代の狭間の短い時期であった。
歴史学では冊封国と属国は分けられて定義されており、この認識に立てば1905年、第二次日韓協約で韓国統監府が設けられて日本の保護国となるまで、李氏朝鮮は独立を保っていたことになる。

1894年(明治24年)の日清戦争で日本が勝った後、日本と清との二国間で結ばれた下関条約にて、清は朝鮮が自主独立国であることを認めた。その結果、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、欧米的近代世界の一員となった。
ただし日朝修好条規が発効した時点で国際法上は欧米的近代世界の一員となっていたとも考えられる。

朝鮮国王高宗はロシア公使館に逃れていたが慶雲宮へ戻った。1897年に国号を大韓と改め、元号も宗主国だった清の元号から朝鮮独自の元号「光武」に変更した。さらに高宗は10月に皇帝に即位した。 1899年には清と韓清通商条約を結んだ。

独立協会を弾圧して、1899年には立法機関である校正所において国家基本法である9か条の「大韓国国制」を制定し、皇帝が大権を持つ専制君主制を成立させる。近代化を目指す光武改革を推進し土地調査や鉱山開発など殖産興業政策を実施するが、財源不足や諸外国の外圧により利権を奪われるなどして挫折する。

1905年、第二次日韓協約で韓国統監府が設けられて日本の保護国となり、イギリスは大韓帝国の永世中立国化を提案するが、1910年の日韓併合条約の締結により日本に併合され、大韓帝国は滅亡した。
なお、王族は[前韓國皇帝ヲ册シテ王ト爲シ皇太子及將來ノ世嗣、太皇帝及各其儷匹ノ稱呼ヲ定メ竝ニ禮遇ノ件]により皇帝でなく昌徳宮李王に柵封された。

(引用終わり)



 では、韓国の歴史教科書からの引用を。

>大韓帝国
>俄館播遷1年目である1897年に高宗は内外の世論に助けられてロシア公使館から慶運宮に還宮し、国号を大韓帝国、元号を光武と変えた後、王を皇帝と称し自主国家であることを内外に宣布した。
>大韓帝国は、内には外勢の干渉を防ぎ自主独立の近代国家を建設する国民的な自覚と、外には朝鮮からロシアの独占勢力を牽制しようとする国際的な世論の支援を受けて成立した。


 
 ここには、何故、どのようにして大韓帝国が成立したかが書かれていません。
 これを読む限りは、高宗が『内外の世論に助けられて』、さらには『内には外勢の干渉を防ぎ自主独立の近代国家を建設する国民的な自覚』と『外には朝鮮からロシアの独占勢力を牽制しようとする国際的な世論の支援を受けて』、国号を大韓帝国、元号を光武と変え、皇帝と称して自主国家であることを内外に宣布したように思えます。それもこれも高宗の『徳』と、優秀な?韓国国民の自覚のおかげ・・・という所でしょうか。


 が、その前提条件として、重要な事柄が抜けています。そう、下関条約です。

>1894年(明治24年)の日清戦争で日本が勝った後、日本と清との二国間で結ばれた下関条約にて、清は朝鮮が自主独立国であることを認めた。(Wikipediaより)


 この条約なくして、大韓帝国の成立はあり得ません。清国が認めるわけがありませんから(註;1876年の日朝修好条規が発効した時点で国際法上は欧米的近代世界の一員となっていたという見方もあります)


 さらには、何故元号を変えたか?にも言及していません。

>元号も宗主国だった清の元号から朝鮮独自の元号「光武」に変更した(Wikipediaより)。

 こんな事、韓国の歴史教科書には書けるわけがありませんか。
 『宗主国だった清』ということは、裏を返せば『清の属国だった』という事を示しているんですから。
 そんな都合の悪い事は隠しておくのが韓国ですよね。


 さてその大韓帝国の施政について。韓国の歴史教科書では、

>そして光武政権が1899年に一種の憲法として制定した大韓国国制は、大韓帝国が専制政治国家であり、皇帝権の無限であることを強調し、統帥権、立法権、行政権、司法権、外交権などをすべて皇帝の大権に規定し専制君主体制をいっそう強化した。 
>一方、光武政権は経済面で量田事業と商工業振興策を推進した。量田事業は過去の累積した弊害の一つである田政を改革し民生を安定させ、国家財政を確保するためのものだった。この量田作業で近代的土地所有権制度といえる地契が発給された。
>政府の商工業振興策が実施され、繊維、鉄道、運輸、鉱業、金融分野で近代的な工場と会社が設立された。これによって実業教育が強調され、近代産業技術を習得するために外国に留学生が派遣されて、各種の実業学校と技術教育機関も設立された。そして交通、通信、電気、医療など各分野にわたる近代的施設が拡充されていった。



 
 素晴らしい!実に素晴らしい施政です。このまま行けば間違いなく弟の国(だそうです)・隣国の日本帝国に追いつき、すぐにでも追い越す事ができそうです。
 でも実際は・・・日韓併合が待っているのです。


>独立協会を弾圧して、1899年には立法機関である校正所において国家基本法である9か条の「大韓国国制」を制定し、皇帝が大権を持つ専制君主制を成立させる。近代化を目指す光武改革を推進し土地調査や鉱山開発など殖産興業政策を実施するが、財源不足や諸外国の外圧により利権を奪われるなどして挫折する。
>1905年、第二次日韓協約で韓国統監府が設けられて日本の保護国となり、イギリスは大韓帝国の永世中立国化を提案するが、1910年の日韓併合条約の締結により日本に併合され、大韓帝国は滅亡した。(Wikipediaより)




 その辺り、韓国の歴史教科書では、このような文章で表しています。

>このように、光武政権は経済、教育、施設面で国力増強をはかったが、執権層の保守的性向と列強の干渉のために大きな成果をあげられなかった。


 『執権層の保守的性向と列強の干渉のために大きな成果をあげられなかった』・・・つまり、悪いのは保守的性向の強い執権層と列強だ!それがなかったら韓国もきっと日本に負けない国になっていた!と言いたいようで。
 こんな風に子どものころから教えこまれるんですからねェ。教育は恐い。




さて、次はいよいよ竹島(韓国名;独島)の登場です。


(引用開始)
間島と独島
 19世紀後半以後、韓民族は間島地方へ移住して、そこの荒蕪地を開拓するなど生活の基盤を確保した。すると清は間島開墾事業を口実に韓民族の撤収を要求し、ここに間島帰属問題が起こった。政府では白頭山定界碑の土門江が松花江の上流なので間島がわが領土であることを主張し、間島に官吏を派遣し管理していた。


 総督府が設置された後にも日帝は間島に統監府の派出所をおきこれを管轄した。しかし、日帝は清と間島協約を締結し(1909年)、満州の安奉線鉄道敷設権を得た代価として間島を清の領土と認定した。
 日帝がこのようにわが国の外交権を掌握して自分勝手に協約を締結したことは乙巳条約に根拠をおいているのだが、乙巳条約が高宗皇帝によって無効であると宣言された以上、この条約を根拠に結んだ間島協約も無効である。


 これだけではなく、日帝は露日戦争中に、独島を自分の領土に編入する不法行為を犯したりした。

(引用終わり)



ま、この問題に関しては、まずは日本政府の立場を・・・。


(引用開始)外務省ホームページ『竹島問題』より
 

竹島問題

1.我が国の一貫した立場
(1) 竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土である。


(2) 韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではない。
(注:韓国側からは、我が国が竹島を実効的に支配し、領有権を確立した以前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていない。)




2.竹島領有権に関する我が国の主張


(1) 竹島領有に関する歴史的な事実

 以下のような歴史的事実に照らして、我が国は、遅くとも17世紀半ばには、実効的支配に基づき竹島の領有権を確立していたと考えられ、1905年(明治38年)以降も、閣議決定に基づいて近代国家として竹島を領有する意志を再確認した上で、同島を実効的に支配してきた。


(イ) 日本は古くより竹島(当時の「松島」)を認知していた。このことは多くの文献、地図等により明白である。
(注:経緯線投影の刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)では現在の竹島を位置関係を正しく記載している。その他にも明治に至るまで多数の資料あり。)


(ロ) 江戸時代の初期(1618年)、伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた。


(ハ) 1696年、鬱陵島周辺の漁業を巡る日韓間の交渉の結果、幕府は鬱陵島への渡航を禁じたが(「竹島一件」)、竹島への渡航は禁じなかった。


(ニ) 日本は1905年(明治38年)、1月の閣議決定に続き、2月の島根県告示により竹島を島根県に編入し、竹島を領有する意思を再確認している。その後、竹島は官有地台帳に掲載され、また、竹島でのアシカ漁は許可制となり、第二次大戦によって1941年(昭和16年)に中止されるまで続けられていた。


(2) 1905年の日本政府による竹島編入の有効性

 1905年(明治38年)の、閣議決定及び島根県告示による竹島の島根県への編入措置は、日本政府が近代国家として竹島を領有する意志を再確認したものであり、それ以前に、日本が竹島を領有していなかったこと、ましてや他国が竹島を領有していたことを示すものではなく、また、当時、新聞にも掲載され、秘密裡に行われたものではないなど、有効に実施されたものである。
(注:領土編入措置を外国政府に通告することは国際法上の義務ではない。)


(3) 日本占領及び戦後処理のための諸文書の中での竹島の扱い

 対日平和条約前の一連の措置(1946年1月29日付連合軍総司令部覚書第677号が、日本が竹島に対して政治上又は行政上の権力を行使すること及び行使しようと企てることを暫定的に停止したこと、及び、1946年6月22日付連合軍総司令部覚書第1033号が、日本漁船の操業区域を規定したマッカーサーラインの設置にあたり、竹島をその線の外においたこと)に関する文書は、いずれもその文書の中で日本国領土帰属の最終的決定に関するものではないことを明記しており、竹島を日本の領土から除外したものではないことは明白である。また、もとより我が国固有の領土である竹島は、1943年のカイロ宣言にある「日本は、暴力及び貪欲により略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし」の「暴力及び貪欲により略取した」地域には当たらない。

(注:1951年のサンフランシスコ平和条約において、日本がその独立を承認し、すべての権利、権原及び請求権を放棄した「朝鮮」に竹島が含まれていないことは、米国記録公開文書等で明らかである。)


3.国際司法裁判所への提訴


(1) 1954年(昭和29年)9月、我が国は口上書をもって本件問題について、国際司法裁判所(ICJ)に提訴することを韓国側に提案したが、韓国はこれに応じなかった(ICJの強制管轄権を受諾することにあらかじめ同意しているか、または、別途同意の意向を表明すること等がない限り、ICJの管轄権は設定されない)。


(2) 1962年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対して、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提議したが、これに対しても韓国側から前向きな反応は得られなかった。




【参考】竹島の現状

1. 地 誌


(1) 島根県隠岐島北西85海里(北緯37度14分、東経 131度52分)に位置する。


(2) 東島(女島)、西島(男島)と呼ばれる二つの小島とその周辺の数十の岩礁からなり、総面積は約0.23平方km(日比谷公園とほぼ同面積)。



2. 韓国の不法占拠の状況


(1) 韓国は、昭和29年7月から現在に至るまで、竹島に警備隊員(警察)を常駐(昭和29年)させるとともに、宿舎、灯台、監視所、アンテナ等を設置、年々強化されている模様である。


(2) 平成9年11月、我が方からの累次にわたる抗議にもかかわらず、500t級船舶が利用できる接岸施設を完工させた。更に、平成10年12月には有人灯台を完工させた。


【韓国本土からの竹島入域自粛について】
 我が国固有の領土である竹島に対する韓国による不法占拠が続いている状況の中で、我が国国民が韓国本土から竹島へ入域することは、我が国国民が竹島において韓国側の管轄権に服し、竹島に対する韓国の領有権を認めたとの誤解を与えかねません。この点につき、国民の皆様の御協力をお願い致します。

(引用終わり)



 
 さて、私が分からなかったのが、『間島』。いったい何の事でしょうか?
 例によってWikipediaより引用してみたいと思います。


(引用開始)(Wikipediaより)
間島(かんとう、カンド))は豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地を指す。主に現在の中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州一帯。

名称

当初、朝鮮では豆満江の中洲島を間島(カンド)と呼んでいたが、豆満江を越えて南満州に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになったものである。また鴨緑江以北の朝鮮民族居住地が西間島(ソカンド)と呼ばれることもあった。
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越境

もともと満州族の清朝は白頭山一帯を祖先の地として封禁地としていたが、人煙稀な土地にいつのまにか朝鮮農民が入り込んでしまったものである。清朝が1881年琿春に招墾局を設置して可耕地を調査したところ、すでに多くの朝鮮農民が入り込んでいた。清朝は朝鮮に越境民をすべて引き上げさせるよう要求したが、越境農民の数が多く、どうすることもできなかった。このため、清朝ではこれら朝鮮人農民を領民と認め課税することにした。清朝の招墾局では朝鮮農民を募集し、食料を与えて開墾させるようになったので、さらに多くの朝鮮農民がこの地域に入った。
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間島問題

一方、朝鮮では豆満江(中国名、図們江)北方の土門江(松花江支流)こそ中朝国境であると主張し、中国と朝鮮は国境線画定のために何度も現地で会談を行った。1885年には中国がこの主張を認めたこともあった。日清戦争で中国が敗北し、中国の勢力が弱まると、朝鮮は1903年間島管理使を任命して現地に派遣した。このため間島問題は中朝間の国境問題に発展した。
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間島協約

日露戦争後、朝鮮を保護国として外交権を握った日本も当初、朝鮮政府の主張を継承し、間島に警官派出所を設置し、朝鮮人に対する中国政府の裁判権や課税権を認めない方針を採った。これに反発した中国は奉天(瀋陽)から一個連隊を間島に駐在させるなど強硬な態度を見せた。1909年、日本と中国の外交交渉の結果、日本は中国における他の権益を譲歩させるため中国の間島領有を認める間島協約を締結し、間島問題はようやく解決された。1910年には朝鮮自体が日本領となったため、朝鮮はこの協約に抗議することもできなかった。ただ、その後も朝鮮農民の間島移住は続いた。
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間島パルチザン

日本の韓国併合後、朝鮮人が多数集住しながら、日本の主権下にない間島地域は独立軍など抗日パルチザンの絶好の根拠地となり、これらパルチザンは朝鮮北部にしばしば出撃を繰り返した。1920年には独立軍が鳳悟洞戦闘や青山里戦闘で日本軍に勝利を収めたと韓国は主張している。。

一部の朝鮮系パルチザンは満州国成立後、1933年には中国共産党系の武装抗日組織である東北人民革命軍に編入され、1935年には国共合作により東北抗日連軍となった。この第1路軍第6師長は金日成で、1937年6月5日金日成部隊は警察官7名を殺害し鴨緑江国境の町普天堡を一夜占領した。現在の北朝鮮では間島パルチザンを朝鮮革命の起源としている。
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その後

間島は、1932年に成立した満州国では延吉を首府とする間島省とした。満州国崩壊後に満州の地の覇権を手にした中華人民共和国は、間島は中国領とするものの1952年には延辺朝鮮族自治区(1955年自治州に降格)を設置して朝鮮族の一定の自治を認めている。

しかし現在の韓国では、日本が勝手に締結した間島協約は国際法違反であり、認められないとする声もある。今後、南北朝鮮が統一されると、この地の帰属をめぐる領土問題が再燃する可能性がないわけではない。その例として現在中国社会科学院は中国東北部の少数民族の歴史研究プロジェクト、「東北工程」(1996年重点研究課題に決定、2002年から本格的に開始)を進めているが、これにより高句麗は中国の一地方政権として中国史に編入されつつあり、韓国国内の民族派からは「満州地方にルーツと多くの領土を持っていた高句麗を韓国史から排除することによって、満州を南北統一後の韓国が領有することの正当性をあらかじめ排除しようとするもの」との推測がうまれ、高句麗史をめぐって中国と韓国の衝突がすでに始まっている。

(引用終わり)



 なるほど。間島問題というのは、中国と韓国の問題だったのですね。しかも日本も関係してくる問題だったとは・・・。
 例の高句麗史問題の元だったんですか。でもまあ、ここではこれだけにしておきます。



 で、肝腎の竹島(独島)問題・・・は、

>これだけではなく、日帝は露日戦争中に、独島を自分の領土に編入する不法行為を犯したりした。

 これだけ?これだけですか?それで何故あれほど騒げるんだろう・・・と思って調べたら、何の事はない。
 韓国では他にも歴史の授業があり、いわゆる韓国史は『国史』として習うのだそうです。この辺りは、『観天望気』(http://captsato.net/blog/archives/2005/04/post_69.html)というブログと、山陰中央新報『(2)日韓の教科書~量、内容とも大きな差』(http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/modules/news/article.php?storyid=102289127)が詳しいようなので、少し引用させていただきます。



(引用開始)『観天望気』様より(東京新聞特報 4/07からの引用)
■竹島をテーマに全国で特別授業
韓国史にあたる「国史」は中学、高校とも必修科目だ。日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)。中学校の教科書では一ページが割かれている。『独島は早くからわが国の領土だった。朝鮮の粛宗(一七世紀末)のときには、安龍福(アンヨンブク)がここを往来する日本の漁民を追い払い、日本に渡って(独島が)わが国の領土であると確認させたこともあった』『しかし、日本は露日戦争中の一九〇五年二月、独島を竹島と名付けて、島根県告示第四十号を通じ一方的に日本に編入した』

韓国では最近、全国の学校が竹島をテーマに特別授業を行った。ソウル市内の中学校で国史を教える宋永心(ソンヨンシム)教諭によると、「生徒たちに韓日双方の主張を紹介し、討論させてみたが、全員が独島は韓国領土だという意見だった」という。中学校の国史教科書は古代から現代まで全三百五十九ページ。日本が韓国の外交権を奪った一九〇五年から独立までの四十年間を植民地統治とみなし、この時代の記述は計六十一ページ。全体の17%に達する。日本の教科書の近代史で、朝鮮半島に直接言及するのは、記述をすべて合わせてもせいぜい二、三ページ。情報量の差は歴然としている(以下略)。

(引用終わり)



(引用開始)山陰中央新報より
(前略)竹島問題について韓国がどう教育しているのか知るため、日本の文部科学省に当たる教育人的資源部を訪ねた。

 応対してくれたのは教育課程政策課で奨学官という役職を持つ李忠浩さん。教育行政のベテランという。

 韓国の学校制度は日本と同じように初等学校、中学校、高校の6・3・3制。初等学校、中学校が義務教育だ。

 教科書に話が及ぶと、李さんは「韓国はすべて国定教科書という誤った認識が日本にはあるように思える。きちんと誤解を解いてほしい」と注文を付けた。

 韓国の教科書は国定、検定、認定の3種類がある。国定は初等学校と中学の国語、社会の国史、道徳など、それと実業高校の一部で使用される。ただ、数年後には他の教科書と同じように検定教科書に切り替わるという。認定教科書は国定や検定の教科書を補うためのものと説明してくれた。

 竹島についての学習は、初等、中学、高校の国語、国史、地理、近・現代史などで、位置から歴史、日本との関係などを総合的に指導する。

 「韓国の領土であることを認識させ、それを通じて国土を守る姿勢を教える」(李氏)。

 内容は、中学の国史教科書(国定)では写真付きで1ページ半を割き、「1905年、日本は独島を『竹島』と名付け一方的に編入した」などと記述している。

 高校のある近・現代史教科書(検定)は、地図付きで約1ページを使い「日本は教科書にまで『竹島』と表記し、自国領土のように歪曲(わいきょく)している」と、日本にとっては厳しい表現が続く。

 韓国に比べて日本の教科書の記述は非常に少ない。中学校の教科書では現在、公民と地理で1社ずつが竹島を取り扱っているだけ。その記述も北方領土などと一緒に数行で触れている程度だ(以下、略)

(引用終わり)


 なるほどなるほど。竹島(独島)問題、日本帝国(日帝)支配の残虐さ、非道さなどをこれでもか!というくらいに教えこんで反日教育を行い、その裏返しとして韓国人としての誇り・アイデンティティーといったものを刷り込む、と。


 歴史に対する目的が全然違うんですね。これじゃあ何時まで経っても『日韓友好』など実現するはずもないし、彼らにはその気も無いのでしょう。
 60年以上も前の事を、しかも歪曲・捏造した歴史を持ち出して来て未だに謝罪・賠償を要求する国、韓国。
 戦後60年間の平和国家としての日本の実績は、一切無視。とにかく何でもかんでも『日本が悪い!』の一点張り。日本としてはどうしようもありません。
 
 
 小泉首相の任期も後わずか。後継者は果たして誰になるのでしょうか?特定アジアに対しては、願わくは小泉首相の姿勢を継承してくれるような方になっていただきたい。そうしない限り、彼らの『謝罪』『賠償』要求は永遠に続くでしょう。


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